昨日の話と関連していろいろ

経験値稼ぎは壁となりえるか

他、そこからリンクされているサイトなんかを見てまたいろいろ考えてしまったので。


まず、昨日の話のつづきから。
対戦ゲームの話を振ったけどアレはちょっと違うわ。いろんなものをごっちゃにして書いていた感じ。俺が好みなのは「必要な操作はシンプルに」であることだ。どういうことかというと、大雑把に言って格ゲー(俺は詳しくないんでイメージが歪んでる可能性がある)とスマブラみたいな違い。前者は複雑な操作をマスターし、その上で読み合いとかのゲーム性が表れてくるイメージがある。それは操作がマスターできてないというのは大きなハンデを背負っているというか、そもそも勝負の土台に上がれていないんじゃないかと思うのだ。後者はとりあえずやりたいことは全部出来る。それをどう組み合わせて戦うかみたいな感じ。


ビリヤードをたとえに出すと、正確に玉が突けるように1000回素振りをやらされるよりも、ある状態でどうやって目的の玉を落とすかを1000回でも2000回でもやって考えろと言われた方がよほど楽しい。いや、これは回数が多すぎて多分楽しくない。つまり、いくら上達の近道だからって基礎基礎基礎では楽しめないだろう。基礎基礎基礎ってスラムダンクっぽい。


そこで今回の話。(←なにがそこでなんだか)
ゲーム「を」遊ぶというのは正しい表現なんだろうか。正しくはゲーム「で」遊ぶではないのか。と。最近のゲームは(と言ってもそんなに数をやってるわけじゃないんだけど)黙ってても楽しませてくれることが要求されているというか、ユーザー側が積極的に楽しみに行くと言う感じじゃない気がするんだけど、昔からそういうものだったっけ? ユーザーが何もしないで「さあ俺を楽しませろ」的なスタンスって間違っちゃいないと思うんだけど、そういうのってなんかもったいないなあ。それはつまり与えられたものを消費するだけなわけで、あーだから消費者って言うのか(←多分違う)。んで、所謂ボードゲームとかはゲームで遊ぶっていう感覚が結構残っている気がするんだけど、なんでコンピューターゲームにはあんまりないんだろう。やっぱり映画とかそういうのをモデルにそっちへばかり進んで来たからこうなったのかな。MMO純粋培養世代にカタンとかやらせてみたいんだけども。


島国大和のド畜生の2004年7月23日の日記(→http://homepage3.nifty.com/dochikushow/diary/d0407.htm の7/23)で

狭義ゲーム性ってのは「努力に対する褒賞のシステム」って事になるのだけれど、もう誰も、ゲームで得られる褒賞(ステージクリアとかシナリオが進むとかの達成感)に、努力するほど魅力を感じて無いんですよ。
 努力したくなるほどの褒賞は用意出来ないのは周知なので、「努力しなくても達成感が得られるシステム」構築が必要なわけです。

とあるんだけど、努力するのって褒賞のためなの?
「ゲームで得られる褒賞に、努力するほど魅力を感じて無い」って言うのは分かるんだけど、俺は努力させている段階で失敗なんじゃないかなあと思う。(例えば)ステージクリアのために繰り返し練習するとしても、その練習課程が楽しければ問題ないよね。と。次はアレを試してみようとかそういうのを繰り返しているうちに自然とクリアできてしまうとかそういうのが理想かなあと思う。


何故時間に比例して結果が出るゲームが流行るのか。
これってゆとり教育の弊害なんじゃねぇの? 「時間さえかければ誰でもクリアできる」という状態でさえ、クリアにかかる時間という能力差が見えてしまう。じゃあ「誰でも同じくらいクリアに時間がかかる」ように設計すればみんな平等だよね。と言う発想か。最大効率以上は誰も出せないから、みんなが最大効率を出せるように動けばみんな平等なわけで、最大効率が出せない不満はその辺にありそう。自分だけ平等のラインから置いて行かれる恐怖とか。んで、平等と言えばmasamasaさん日記にあった華氏911の映画評(→http://www4.ocn.ne.jp/~temp/index.html の上から1/5あたり)が微妙につながってくるなあ。


まあとりとめのない話。